プロフィール

・1994.母が介護で不在になりがち、幼稚園に帰ってから一人でお留守番、もしくは友人宅で過ごす

・1993~1998 習い事がどれ持つ続かず プール ピアノ 習字など習うがすぐにやめる

・1997 学習教材を家で行う、勉強ができないことで母がヒステリックになり泣かれる

・1997 祖母が亡くなる

・1998 塾に通う お腹が必ず痛くなる お願いしてやめさせてもらう

・1998 ガールスカウト いじめにあう 夏休み前に、家出を試みるが雨が降っており姉が迎えに来てくれる

・1998 友人に小学校でもグループからはみごにされる、先生信用できず

・1988 直接は言えなかったので、苦しい思いを手紙にしたたとめ机に置くが、何も聞かれず何もなかったよう    に過ごすことへの違和感を 両親に対して持つ

・2000 中学受験 落ちる  

・2000 友人関係に悩む 姉は関東の大学へ

・2001 クラスメイトから無視、自律神経失調症に(手汗、動悸)パティシエの夢を持つ

・2002 緊張がひどく、手汗や動悸などの症状から精神科に連れて行ってほしいと親に相談する

・2003 親にパティシエになりたいと言うが反対される、高校受験

・2004 友人と上手くいかず、ひとりで過ごす、専門学校への資料請求、携帯小説にはまり小説を書きだす

・2005 極度の対人恐怖、自律神経失調症、視線恐怖、などがあり心療内科へ通い始める

・2006 専門学校に行きたいというが、母がせめて大学は行ってほしいと泣いたことで進学の道へ決める、相    談し大学受験へ

・2007 大学、心理学科へ進学、親元を離れ、下宿

・2008 友人、彼ができ、アルバイト等充実して暮らすが、精神安定剤の薬の副作用が強く、眠気と闘い日々    を送る

・2009 カウンセラーの仕事に興味を持つが、勉強についていくのが必死 大学院は諦め、就職を考える

・2010 大学の近くの心療内科に通うが、服装等、見た目が派手だったこともあり、友人に相談できないの?    と言われ、心療内科に通うのに嫌気がさす

・2011 大学卒業し、就職活動をしたくなかったので、和菓子の販売の仕事をアルバイトから正社員に

・2011 デパ地下の閉塞感が苦痛、人間関係、パワハラでやめる 

・2011 イベントコンパニオンの仕事につく  

・2012 デザインの専門学校に通う

・2013 姉夫婦、両親の板挟み、家族関係の悪化、父が鬱 頭痛がひどくデザインの学校辞める 精神不安定    胃炎になる

・2014 ひきこもる 姉からのプレッシャー 仕事に悩み遊びにもいけない、友人関係連絡断つ

・2015 アパレル販売員の仕事に就く、パワハラでストレスがたまる、帯状疱疹などに悩まされる

・2016 お店のクローズとともに退職

・2017 アートセラピーを学び資格をとるが、抗うつ剤を飲んでいたことで就職支援を断られる

・2018 知り合いの店舗の雑貨屋さんで働く、店舗閉鎖のため退社 オーガニック食品 雑貨の販売 

・2019 オーガニック食品 雑貨の販売、シフトの都合が悪く退職 スポーツジムの受付で働く

・2020 コロナの関係でスポーツジムを退社  ダイエットインストラクターの資格取得

・2021 パーソナルトレーナーの活動を始める 

・2022 パーソナルトレーナー資格取得

・2023 健康事業の仕事に就く

・2024 観光地のお店で働く

・2025

母から否定されているように感じ、苦しくなる子供時代

私は、両親と6つ上の姉の4人家族で育ちました。

末っ子で両親から可愛がってもらうこともありましたが、両親の目が私だけにいかないように姉に気を遣うような子供でした。

大人しく内気で、周りとのペースが合わずよくまわりを見てから行動するような子でした。

集団で行動することが苦手でぼーっとした子供でした。

幼稚園から小学校2年生ぐらいまでは、母が祖母の介護で遠方に行っていたので帰りが遅く、姉も塾に行っていたので、友人の家や一人の留守番が多く、悩みも言えずに一人で抱えていました。

習い事は、どれも苦痛で続かず、そんな私を母は周りの子たちと比較し不満げでした。

小学校の通知表に私のことを「大人しくて、優しい」と書かれていましたが、

それをみても特にいい反応はなく、母が期待している子と自分は違うとどこかでわかっており、

優しいと書かれていたことについても、「優しいってだれでもできることでやっぱり自分って

たいしたことないんだ」と当時の私は思いました。

祖母が亡くなり、母は主婦だったので家にいる時間は増えましたが、遊んでもらうことはなく、今私の行動をチェックするようになりました。

私は絵を書いたり、家で遊ぶのが好きな子供だったのですが、母はいつも外遊びを強要してきました。

家にいると「外に遊びに行きなさい」と言われ友達を誘うように言われました。

母の前で友達に電話をかけることもありましたが、友達がもう出かけてしまっていたので、友達の少し年が離れた妹を誘うと情けなそうな顔をされたので、その誘いキャンセルし、別の近所の子を誘って遊んだこともありました。このころから私は母の機嫌を損ねないように動いていたと思います。

誰と遊んでいるか、どんなTVの内容をみているか、どんな遊びをしているか、

母の機嫌を損ねると、冷ややかな目線を向けられるので、行動をチェックされている私は常に緊張がありました。

居場所が見つからず寂しさが募る

家庭学習教材で勉強ができないことで母に泣かれショックを受けたこともありました。

私は母の涙を見たのが初めてだったので、うれし涙ではなく、勉強ができない自分に対しての情けなさに泣かれたことに自分への不甲斐なさを感じました。あまりの緊張感で「わからない」ことを分からないということもできず、黙っていても叱られる苦痛の時間から逃れるため、夕食後の勉強の時間は隠れるようになりました。

小学4年生になると、ガールスカウトに入りますがそこで陰口を言われるいじめを受けます。

塾に通うようになりますが、勉強についていくことができず毎回腹痛になっていました。

手を過剰に洗うことが増えました。

両親に悩みを伝えようと手紙を書きリビングの机の上に置いたこともありましたが、何の反応もありませんでした。

学校でも友人のグループから外され無視を受け、家でも外で遊ぶように言われるので、私は我慢の

限界を迎え、夏休み前に家出をしたこともありました。心の中で「自分が居なくなったら誰が悲しんでくれるんだろう?」という思いがありました。

周りと比べ極端に、自信がなく辛い日々

中学受験に落ち、地元の公立中学校に通いますが、中学2年生になるとまたクラスメイトから無視されたり

笑われたりするようになります。このころの私は緊張がひどく、クラスメイトに話しかけるにもすごく勇気の

いる行動でした。みんなが私のことを笑って馬鹿にしているような気がする。自律神経のバランスを崩し、汗をびっしょりかいたり、動悸がしたり、のぼせたり、学校に通うのもギリギリでしたが、休みたいと言っても親に休ませてもらえず、ギリギリの精神状態で通っていました。そんな中、3者面談で「もっと自信をもったらいいのに」と先生から言われます。私は「どうしたら自信ってもてるのだろう?」「みんなはなぜあんなに堂々と自信があるのだろう?」と疑問を抱き、憂鬱な日常を過ごします。ある日、母に精一杯の勇気をだして「先生から自信がないって言われたのなんでだと思う?」と問います。そうすると母は「参観日とか声が小さいし」と言われました。私はちゃんと向き合ってくれていないような感情になり、もう母に相談するのはやめようと決めます。

夢への葛藤、親の希望の進学の道へ

小さい頃、私はお菓子作り、料理が好きで、中学生になるとパティシエになりたいと思っていました。

料理の道は厳しいと両親に反対され私は夢を簡単に諦めました。ただ自分で専門学校を調べた時は、自分で可能性を探したわくわくがありました。高校生になり、自分は将来的にどうしても会社員になる想像ができず、大学へ行っても意味があるのかという疑問を抱き、手に職をつける、美容、デザイン等の専門学校に興味をもち資料請求しましたが、母にせめて大学は行ってと泣かれてしまい、大学進学の道へ決めました。

ただ、このころ小説家、アクセサリーのデザイナー、カウンセラーなど新しい夢をつくり、

携帯小説が流行っていたので携帯小説を書いたりしていました。

大学は地元から離れ、暮らしたいと思っていました。そのために、高校生活はどんなに辛くても休まずに通いましたが、対人恐怖がどんどん悪化し、人とまともに目が合わせられなく、人と話すのが怖くなっていきました。電車に乗っても人の視線が怖く感じるので目の高さが合わないように、座席に座らず窓際に立つ、座りたいときは目をつむるなどしました。自分では分からないぐらい笑顔が減り、反応が悪かったこともあり、

男子生徒から脅かされることもありました。日常的に笑顔がないことで、笑うと驚かれたこと、いつも下を向いて歩いていたので、挨拶に気づかなかったこともありました。私の神経はすり減り限界が来たことで、

ようやく心療内科に連れて行ってもらうことができました。

心療内科で薬の治療が始まりました。

薬の副作用に苦しむ大学時代

大学では、もしかしたら自分のような経験をした人の力になれるかもと、心理学を専攻しました。

地元から離れ、大学の寮に下宿しました。薬による安心感から人と関わることはでき、友人や彼氏もできましたが、大学の授業中に薬の副作用であまりの睡魔で机に伏してしまい、先生から注意を受けたこともありました。メンタル的にもアップダウンが激しく、睡魔もひどく、どうして私はこんな思いをしないといけないんだろう?という思いを抱えていました。友人関係では気疲れがひどく、行きたくないやしんどいを言ってしまう嫌われるという思いがあり、行きたくない誘いも、ありがとうといって断らずに行く癖がつきました。やっとできた友人を失うのは嫌で、自分が我慢すればいいと思っていました。当時、付き合っていた彼氏からは、「そんなに行きたくないなら断ればいいのに、ちょっとわがままぐらいでちょうどいいと思う」と言われましたが納得しない自分が居ました。メンタルが安定せずにささいな喧嘩が増え、大学の近くの心療内科に通いますが、その先生には、「友達には相談できないの?」と言われてしまいます。その当時、見た目が派手だったこともあり、理解されないような空気感を感じました。「なぜ、ここにきているのかわからないの?」と怒りの感情がこみ上げ、とても辛く感じました。

薬に囚われる苦しい毎日

当時付き合っていた彼氏から、大学卒業までに薬を飲むのをやめてほしいと言われました。

私自身、副作用からやめたい気持ちが強く、でもやめられずにいるなかでその言葉のプレッシャーで押しつぶされそうでした。薬を飲んでいるから、献血にも行けず社会の役にも立てない。薬を飲んでいると、だるい、太りやすいといったことも気になり、漢方薬も試したりいろいろ頑張ってはみましたが、うまくいきませんでした。彼氏は薬を飲んでいるから喧嘩になると言っていました。自信がなく、自分の魅力も分からない私は、友人や彼氏によってかろうじて自信を保てていました。彼氏の存在は、私にとって大きく唯一気持ちを言える人だったので、「なんで気持ちをわかってくれないん?」と気持ちをぶつけていました。

その彼氏とは将来を考えていましたが、結果的に別れてしまいました。

その後、飲み会で出会った方と食事に行きましたが、

薬を出すと「見せて」と言われてみせると「これって抗不安薬だよね?」と言われ明らかにその後の対応が変わりました。口調も上から目線になり、その後、誘われることはありませんでした。私は、冷めた感情になり世の中にはいろんな人がいることを悟りました。

頑張っても、薬を飲んでいるという劣等感からはなかなか抜け出せませんでした。

世間のレールに沿った就職への道へ

メンタルの不安定さと大学院の進学や勉強の難しさがネックとなり、カウンセラーの道を諦めた私は、

今後の人生プランが分からなくなっていました。ただどこかに就職できればいいとだけ考えていました。

就職説明会も取れないほどの就職氷河期だったこともあり、自分にはそこに受かる能力はないと考えたので、就職活動を諦め、私は当時働いていたアルバイト先から正社員として働くことにしました。

そこで正社員として働くものの、デパ地下の売り場の行動範囲、ミスが許されない緊張感、売り場で押しのけられるパワハラ、等に耐えられず、3か月で仕事をやめてしまいます。このころは毎日出勤前にお腹がいたくなって、始発に近いバスで1時間トイレにこもってから、行っていました。気を付けていても制服の洗濯のたびに名札を忘れ、反省書を書いたこともありました。このころ、常務に顔色が悪いと呼び出され「人には向き不向きがあるから、あなたはゆっくり丁寧に接客できるところがあっているよ」といってもらい辞めることにしました。

手に職へのあこがれ

辞めてから親に専門学校へ行かせてほしいとお願いしました。私は、「美容の専門学校に行きたい」と昔から行きたかった専門学校への道を母に相談しました。

そこはとても魅力的でエステやネイルやいろいろ学べる学校でしたが、母に「東京は辞めて」と泣かれ却下されてしまいます。私は、とりあえず手に職がつけられそうなところで、家から通える範囲の専門学校でデザインを学ぶことにします。最初はわくわくしていましたが、雑貨作りの時間以外のPC操作が苦痛で

頭痛やドライアイに悩まされ、頭痛薬も利かなくなり、辞めてしまいます。これからの方向性が定まらず、メンタルも不安定で家にこもる日々が1年ほど続きます。その時に心療内科を変えてみました。心療内科では「発達障害の可能性がある、社会に適応しにくい」などと言われましたが、それを家族に言うと「発達障害なんかじゃない」といわれました。社会に適応しにくいといわれたことがショックでそれ以外先生から何を言われたのか覚えていません。発達障害については当時はほとんど理解がなく、私は言われたことを忘れることにしました。このころ、人の目が気になりスーパーへも出歩くことが難しくなっていました。家族で車で出かけた時も1人で車で待っているほどでした。

別の心療内科を探したり、カウンセリングを受けてみたりしましたが、これまでと変わらず、「さなぎの冬眠の時期だから、ただ待つように」と言われ将来への不安、焦りがつのるだけでした。友人からの連絡も経ちSNSもほとんどみませんでした。

そんな日々を過ごし専門学校を辞めて1年経とうとしているところで姉から「いつまで親に甘えているん?」と言われて喧嘩になります。

私のメンタルは不安定で、家族以外の人とまともに話していなかったので、働くのが怖い気持ちでいっぱいでしたが、いろいろ言われ続ける方が嫌だったので、働くことにしました。

仕事に就くが強烈なパワハラにあう

気が付けば20代半ばになっていた私は、恋愛も充実感も何もなくおしゃれから遠ざかっていた。

何もやりたいこともなかったので、華やかに見えるアパレル店員の仕事につくことにした。

ただ、アパレルは厳しいと友人から聞いていたので内心びくびくはしていたが、今チャレンジしないと一生できない気がしたので、そこで働くことにした。今まで仕事をしていなかったのが急にフルで働くことになり、頭も体力もついていかなかった。薬が効きすぎ、眠気やだるさと戦っていた。「1回言ったことは

1回で覚えて」と言われたが、私はメモをとってもメモをなくして、もう1回聞いたりしていたので、先輩からのあたりはきつかった。閉店後から朝になり、ハンガーにかけっぱなしで伸びないように降ろしていた服を、店頭に並べてかけていく作業で私はよく服の位置を間違えてかけてしまっていた。1つミスをすると5個それについての反省を休憩時間に書かされるので、私の休憩時間はいつも短かった。

店の前で説教されることもあった。わたしは疲れから、電車の乗り換えミスや寝過ごしをすることが多くなった。全然降りたことのない駅まで行ってしまい、帰りが遅くなった事が多々あった。

大変な毎日だった。セールで忙しさがピークに来ているときに、愛犬が弱っていて私はそれが気がかりだった。愛犬の心配事と仕事のストレスと疲労で帯状疱疹がでた。愛犬は亡くなってしまったが休日に看取ることができた。その後、店長が変わり少し働きやすく、帯状疱疹から早番に考慮してもらえた。

早番に考慮してもらえたことで私のことをよく思っていないスタッフから、二人の時によく罵声を浴びせられるようになった。

人権侵害のようなことも言われたので「さすがに言っていいことと悪いことありますよね」と私も言い返すようになった。その後、会社の営業担当の方とミーティングが行われ、パワハラをしてきたスタッフから謝ってもらうことができた。大変だったが、ここまで頑張った自分をようやく認めることができた。

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